2016年6月16日木曜日

エピゲノムの‘遺伝’


以下の括弧(“”)で囲ったところは、太田邦史著『エピゲノムと生命』(講談社)より抜粋・引用した部分である。

生命科学の専門的な記述部分は省略し、私の関心がある部分のみ以下に引用する。

従来、親の世代の形質がこの世代にDNAのコピーとして遺伝すると考えられてきた。ところが最近になって、環境によって獲得された形質の一部が、エピゲノムの記憶を介して次世代に引き継がれることが分って来たそうである。

エピゲノム修飾の大半は、生殖細胞DNAのメチル化・脱メチル化により消去されるものの、一部何らかの理由により消去されないものがあり、それが世代を超えて子孫に伝わるということである。

これは、親の世代で受けたストレスにより、子や孫の世代で何らかの問題が生じることを意味する。ストレスにはいろいろある。例えば凶悪な罪を犯す者も、その被害を受けた者も共に精神的・肉体的ストレスを受けるだろう。その影響は子や孫の形質や精神状態に影響を及ぼすだろう。顔つきや表情にも影響があるだろう。仏教の「前世」「現世」「来世」の三世にわたる「輪廻転生」が、現代の生命科学・脳科学により明らかになりつつあるようである。

エピジェネティクスの問題を国家や社会の問題として考えることが必要である。

“エピジェネティクスに関わる目印(化学修飾)は、ヒストンだけでなく、DNAにも付けられます。メチル基がDNAに付くことを「DNAのメチル化」と言います。・・(中略)・・

ゲノム刷り込みも、エピジェネティクスのメカニズムが関わっています。特に重要なのが、DNAのメチル化です。父由来、もしくは母由来の遺伝子の制御領域のDNAのどちらかにメチル化が生じると、その領域の遺伝子発現が抑制され、これによってゲノムの刷り込みが起こります。通常DNAに結合したメチル基は、DNA複製や細胞分裂を経ても、維持型のDNAメチル化酵素のはたらきで 修飾パターンが維持されます。

ところが、哺乳類が精子や卵を作る際には、せっかく確立されたゲノム刷り込みは、一度消去さえてしまいます。つまり、「ゲノム刷り込みの消去」とは、化学的な言葉で言えば、DNAに結合したメチル基が外される「DNA脱メチル化」が起こることなのです。

エピジェネティクスでよく話題にのぼるのが、母胎で胎児が成長している際に飢饉にあうと、その子は出生後、心臓病や糖尿病、肥満や、乳癌になりやすいという報告です。つまり、一人の人間の形質に、環境要因が世代を超えて影響を与えるというのです。・・(中略)・・

もともと、エピジェネティクスは「細胞の記憶」のしくみの一つです。ですから人間の認知機能においえ重要な位置を占める「脳における記憶」にも何らかの重要な役割を果たしていると考えられます。・・(中略)・・昔の出来事などを長期間記憶する「長期記憶」は「海馬」と呼ばれる脳内の領域のはたらきを通じて確立されます。具体的には、大脳皮質の神経細胞どうしの信号伝達が長期間継続的に強まることにより、長期記憶が成立します。神経細胞の信号伝達が強化される際に特定の遺伝子が継続的に発現するようになるのでしょうが、そのような遺伝子発現パターンの固定化に、ヒストンのアセチル化などのエピゲノム制御が関係しています。・・(中略)・・

遺伝学的に見れば、子は親のDNAを受け継いでいますので、姿形や病気になりやすさなどの一部の表現型は引き継ぐことになります。しかし、親の行いによって後天的に獲得した機能や特質(たとえば筋肉トレーニングでついた隆々とした筋肉など)は、子にそのまま伝わることはふつうありません。・・(中略)・・

「獲得形質の遺伝」という考え方は、すでに過去の遺物になっています。「獲得形質は遺伝しない」という考え方は、チャールズ・ダーウィン博士の進化論以降、生物学の常識とされています。ところが最近になって環境によって獲得された形質の一部が、エピゲノムの記憶を介して次世代に引き継がれることが少しずつわかってきました。つまり、「環境」と「遺伝」は相互作用するのです。・・(中略)・・

「胎児プログラミング」という考え方が提唱せれています。母胎での成長期に栄養飢饉や化学物質の曝露を受けることで、胎児のエピゲノムに影響が生じ、出生後もこれが記憶されて成人や次の世代になっても継続するという考え方です。・・(中略)・・

胎児期における飢饉の影響については、オランダのコート研究でさらに驚嘆すべき事実が判明しました。胎児期に飢饉の影響を受けた子らのうち、女性については、孫の世代で出生児の身長が低く、肥満度がたかくなるというのです。一方で、母胎で基金を経験した男児が成長して父になった場合、孫にこのような影響はほとんど見られませんでした。・・(中略)・・

これらの研究成果が社会に与える影響は絶大です。親がどのように生活したかで、子の人生に影響が及ぶというのが、科学的な根拠を持って語られる時代になったわけです。・・(後略)。”

“母胎で飢餓を経験した子らが成人して中高年になったとき、統合失調症や、肥満、心臓病、糖尿病などのメタボリック症候群になりやすいこと、さらには乳がんにもなりやすいことが明らかになったのです。

出生時の体重が少ない赤ちゃんが成人し、過剰な栄養を摂取すると心臓病やⅡ型糖尿病の発症リスクが高くなることが知られています。胎児期に栄養が不足していると、飢餓に対応するための遺伝子が活性化し、これが記憶されます。これにより、成人になった際、同じカロリーを摂取しても、通常の人間より効率的に利用することが出来るようになります。飢餓のときは良いのですが、現在のように飽食の時代になると、このような飢餓に対抗する遺伝子がアダとなるというわけです。

子育てに問題が生じると、その影響が子の気質に及ぶことが知られています。たとえば、自分の子をきちんと育てない「育児放棄」の母親の子や、親からの虐待にあった子は、成長して自分が子を持った時に、同じような行動に出る傾向があります。同様な現象がマウスでも観られます。

親世代のストレスが、子の人生にも影響を及ぼしている可能性があります。このような状況が、昨今の育児放棄の増加や、児童虐待の連鎖に結びついているとしたら、大変憂慮すべき状況であると考えられます。加えて、社会的遺伝という生物学的現象が、社会の階層化や格差の固定化や拡大に、人知れず貢献している可能性も捨てきれません。

エピゲノムはDNAによる生命情報の上の階層に、新たな記憶手段を上乗せするものであると述べました。生命情報はこのように漆塗りのように多層的な記憶システムを獲得してきたと言えます。最たる例は、人間の脳ではないでしょうか。エピゲノムで実現される細胞レベルの記憶を、さらに細胞間でネットワーク化することで、高度な記憶や認知機能を獲得してきました。人間は、さらに言語や外部記憶装置、コンピューターやネットワークを生み出すことで、高度でダイナミックな情報制御システムを構築するまでになりました。

エピゲノム修飾の大半が生殖細胞で消去されるものの、一部は世代を超えて伝わるという問題点が生まれました。これにより、育児放棄の連鎖、社会階層の固定化などの、負の側面が生じる可能性も出てきたことになります。”