2017年3月2日木曜日

無意識と因果応報

 
 仏陀(Buddha)が語られた言葉に次のことがある。

 「それ故に、来世のために功徳(くどく)を積め。功徳は実にあの世における人々のよりどころであるからである。」(『ブッダの真理のことば・感興の言葉』(中村 元訳、岩波文庫、「第五章愛するもの 22」)

ユングの心理学では「集合的無意識」という概念がある。これは、父性のイメージである「父親元型」、母性のイメージである「母親元型」、自分の普段とは違う行動を起こす別の自分、つまり自分の「影」という「元型」、自分の自我の背後にあって自分自身を支えている中心的な何か、つまり「自己(セルフ)」という「元型」、自分の中の異性的なものなど、いろいろな「元型」という普遍的な無意識の集合である。これは習慣的に身についてできた「無意識」の深奥にあって、一度も意識されたこともなく、これからも意識されないであろう「何か」である。

ヒトのこのような「集合的無意識」は、遺伝子によるものではなかろうか?先日テレビで蟻たちの生態に関する映像を観た。自然の災害で蟻の巣が浸水の危険にさらされ、実際にありの巣の中に水が浸水する事態となった。そのとき蟻たちは集団で筏になり、その上に女王蟻や幼虫を載せて水面上を安全な場所に向かって移動を始めた。蟻たちは呼吸のため交代で筏になった。幼虫の幾つかは浮き袋代わりにした。それでも大部分の幼虫は救われる。蟻たちにこの集団行動を取らせたものはフェロモンによるコミュニケーションと本能であろう。これらはすべて蟻の遺伝子に組み込まれている筈である。

仏教では視覚的認識である「眼識」、聴覚的認識である「耳識」、嗅覚的認識である「鼻識」、味覚的認識である「舌識」、触角的認識である「身識」、知覚的認識である「意識」の六識に加え、潜在的な「意」として、常に自己中心的な考えをもつものとしての「末那(まな)識」(第七識)、次に心の中に蔵せられ、心の奥に横たわっているという意味の阿頼耶(ālaya)であり、それは「輪廻」の主体として、「業」や経験に従って常に変化しつつ連続するもの、「業」の潜在力(習慣力)としての「阿頼耶識」(第八識)、さらに無垢な識としての「阿摩羅識」(第九識)の九つの「識」があるとしている。

ここで「業」とは「因果業報」の業である。仏教では「霊魂」は不生不滅の実体ではなく、絶えず変化する現象学的な存在であるとする。「輪廻」の主体としての「霊魂」は業報にまとわれ、「業」と「報」から成っているとされる。(参考引用:『仏教要語の基礎知識』『仏教の基礎知識』、何れも水野弘元著、春秋社刊)

これら「識」のうち六識は明らかに遺伝子によるものである。第七識の「末那識」も経験学習で身につくものであろう。実際われわれの言動の大部分は無意識的である。ところが、第八識「阿羅耶識」は、遺伝子による「何か」と、生後の習慣・経験による「何か」で自分自身では知り得いないものであるとは考えられるが、まだそれは現代の科学では証明されていない。しかし、ヒトの性格については最新の分子生物学の知見で明らかになりつつある。