2017年9月28日木曜日

量子意識

アントン・ツァィリンガー(Anton ZeilingerUniversity of Vienna)は光子を144km離れた2地点間でテレポートさせる実験に成功した。この実験では量子が遠隔で作用したしたことが判った。しかしなぜ量子が遠隔で作用するのかについては今のところ証明不可と言われている。理論的には人間も量子で出来ているので人間をテレポートさせることは可能であると言う。

 発射された光子が二つのスリットを通り抜けた時、光子の波動性による干渉縞が生じる。この干渉縞が人間の意識で変化するかどうか実験が行われた。ノエティック科学研究所(Institute of Noetic Sciences)のディーン・レイディン(Dean Radin)は科学的な実験を行った。その結果、人間がそのスリットを通り抜ける光子に意識を集中させると、その集中を始めた3秒後にその干渉縞に明らかに変化が起きた。この実験には延べ250人が参加し、有意な結果が得られたという。しかしこれは非常に不思議な現象である。

 アインシュタインは「重力は時空の歪みやさざ波により生じる」と言った。一方エドワード・ウィッテン(Edward WittenInstitute for Advanced Study(日本語の名称:プリンストン高等研究所)は1995年に超弦理論を修正したM理論を提唱した。これによりアインシュタインの一般相対性理論と量子理論が統一されることになった。

アインシュタインの重力と量子力学の強い力・電磁気力(原子の内部で陽子と中性子を結び付けている力)・弱い力(放射性崩壊を司る力)の四つの力がM理論により統一的に説明できるようになった。後は実験でこの統一的理論を実証することが残っている。因みに重力は質量ゼロの粒子Gravitonにより伝えられる。カリフォルニア工科大学(California Institute of Technology)とマサチューセッツ工科大(MIT)などの研究チームは20159月、巨大観測装置LIGOで重力波を検出したと発表している。


 M理論では宇宙は11次元でできているという。人間の脳は4次元だけ認識できるように進化してきたが超弦理論を発展させたM理論の登場により、我々の宇宙はBRANE と呼ばれる幕のように見える物体の中に存在していることが判ったと言う。BRANEは幕(MEMBRANE)から派生した用語である。BRANEはより高い次元の空間にひろがっていて、十分なエネルギーが与えられればBRANEは巨大な大きさに成長すると言う。

 「意識」は量子化されるか? もし「意識」が量子化されるならば「意識」は時間・空間を超越し、広大無辺・自由自在・融通無碍に量子として存在し得るだろうか? 過去に生きたある人の「意識」は現在に生きているある人に伝わるだろうか? もし伝わるとすれば、それは意識の「共鳴・共振」なのか?

 仏教では「意識」のみならず「無意識」の領域についても説かれている。仏教では「意識」の領域では生老病死の四苦に、「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」「五取蘊苦」の四つの「苦」を加えて「四苦八苦」という。因みに「生苦」は母胎に妊娠する初刹那のことである。精子が卵子と結合した刹那が「生苦」である。また「五取蘊苦」は他の七つの「苦」を総括したものである。

 仏教で説かれている「無意識」の領域の最も浅い潜在意識から最も深い潜在意識まで三つの無意識層はそれぞれ「未那識(まなしき)」「阿頼耶識(あらやしき)」・「阿麻羅識(あまあしき)」である。「男」は座禅の経験が全く無いが、深い禅定に至ればこれらの意識が自ずと顕れるのかもしれない。それは仏教で説かれている神通力と何か関係があるのかもしれない。

 もし「意識」が時間・空間を超越し、広大無辺・自由自在・融通無碍に存在し得る量子によるものであるとするならば、そして自分の意識を過去に生きていた善男子・善女人の意識と「共鳴・共振」させることができるのであるとするならば、人が仏壇の前で、十字架の前で、或いは神道の拝殿の前で手を合わせて祈る行為は、その人が希求しているある事を物理的に実現させようとする行為であるということができるだろう。


予期しない別のところで起きたと自覚される意識の現象

以下はWikipediaからの引用である。“”で引用する。

“脳の振る舞いに系の持つ量子力学な性質が本質的な形で関わっているというのが量子脳理論と言われるものの一般的な特徴であるが、近年では意識の問題と絡めて議論されることが多い。”

 “このように粒子の状態という情報は、どれだけ遠く離れていても光の速度を超えて一瞬で伝えることができます。ところが、この量子エンタングルメントのみで意味のある情報を遠く離れた相手に送ることはどうしてもできないのです。・・(中略)・・古典通信の助けを借りることで量子テレポーテーションが完成するのです。・・(中略)・・多世界解釈では、重ね合わせの数だけ世界が分岐し並行世界が存在するとされています。観測によって状態が1つに収縮するのではなく、観測により2つの並行世界が出現するのです。観測者自体が観測により分岐し、どちらか一方の世界しか知り得ないため、1つに収縮したように思えるというのがこの解釈の主張なのです。実用的な量子コンピュータが実現されれば、この多世界解釈が実証されることになるという‘解釈’もあります。じつは、その目的で量子コンピュータが考え出されたという話もあります。”

 量子エンタングルメントは「場の理論」・「物性理論」・「重力理論」・「量子情報理論」等と関わりがあるということで、高度な数学能力がないと科学的な証明を行うことはできない。


 この世で仏陀になられた釈尊は無数の仏の世界について語られた。釈尊はご自分が入滅後仏陀になるお方は弥勒菩薩である、その弥勒菩薩は567千万年後に仏陀になる、と仰せられた。釈尊はご自分の意識を広大無辺の宇宙と567千万年後の世界まで延伸されたのである。これは量子エンタングルメントと何か関係がありそうである。

2017年3月2日木曜日

無意識と因果応報

 
 仏陀(Buddha)が語られた言葉に次のことがある。

 「それ故に、来世のために功徳(くどく)を積め。功徳は実にあの世における人々のよりどころであるからである。」(『ブッダの真理のことば・感興の言葉』(中村 元訳、岩波文庫、「第五章愛するもの 22」)

ユングの心理学では「集合的無意識」という概念がある。これは、父性のイメージである「父親元型」、母性のイメージである「母親元型」、自分の普段とは違う行動を起こす別の自分、つまり自分の「影」という「元型」、自分の自我の背後にあって自分自身を支えている中心的な何か、つまり「自己(セルフ)」という「元型」、自分の中の異性的なものなど、いろいろな「元型」という普遍的な無意識の集合である。これは習慣的に身についてできた「無意識」の深奥にあって、一度も意識されたこともなく、これからも意識されないであろう「何か」である。

ヒトのこのような「集合的無意識」は、遺伝子によるものではなかろうか?先日テレビで蟻たちの生態に関する映像を観た。自然の災害で蟻の巣が浸水の危険にさらされ、実際にありの巣の中に水が浸水する事態となった。そのとき蟻たちは集団で筏になり、その上に女王蟻や幼虫を載せて水面上を安全な場所に向かって移動を始めた。蟻たちは呼吸のため交代で筏になった。幼虫の幾つかは浮き袋代わりにした。それでも大部分の幼虫は救われる。蟻たちにこの集団行動を取らせたものはフェロモンによるコミュニケーションと本能であろう。これらはすべて蟻の遺伝子に組み込まれている筈である。

仏教では視覚的認識である「眼識」、聴覚的認識である「耳識」、嗅覚的認識である「鼻識」、味覚的認識である「舌識」、触角的認識である「身識」、知覚的認識である「意識」の六識に加え、潜在的な「意」として、常に自己中心的な考えをもつものとしての「末那(まな)識」(第七識)、次に心の中に蔵せられ、心の奥に横たわっているという意味の阿頼耶(ālaya)であり、それは「輪廻」の主体として、「業」や経験に従って常に変化しつつ連続するもの、「業」の潜在力(習慣力)としての「阿頼耶識」(第八識)、さらに無垢な識としての「阿摩羅識」(第九識)の九つの「識」があるとしている。

ここで「業」とは「因果業報」の業である。仏教では「霊魂」は不生不滅の実体ではなく、絶えず変化する現象学的な存在であるとする。「輪廻」の主体としての「霊魂」は業報にまとわれ、「業」と「報」から成っているとされる。(参考引用:『仏教要語の基礎知識』『仏教の基礎知識』、何れも水野弘元著、春秋社刊)

これら「識」のうち六識は明らかに遺伝子によるものである。第七識の「末那識」も経験学習で身につくものであろう。実際われわれの言動の大部分は無意識的である。ところが、第八識「阿羅耶識」は、遺伝子による「何か」と、生後の習慣・経験による「何か」で自分自身では知り得いないものであるとは考えられるが、まだそれは現代の科学では証明されていない。しかし、ヒトの性格については最新の分子生物学の知見で明らかになりつつある。

2017年1月7日土曜日

われわれは何処から来て何処に行くのか(2)


私たちが認識する世界は大自然そのものであり、生きとし生ける物すべてに生老病死があり、私たち人間だけが物事の善悪を判断し、意識をもって行動しているがそれは私たちが発達した脳をもっている生物であるにすぎないからである。私たち人間はそういう生物であるから勝手に「人生の目的」を考えるが、その目的は万人共通ではない。

私は阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)が大宇宙そのものであると考える。人間は宇宙の営みに逆らうことは決して出来ない。17世紀の哲学者スピノザは「神は自然である」と言った。それは汎神論哲学と言われる。私はその哲学をさらに発展させて、「宇宙は生命体のようなものである」と思いたい。

そういう立場で人間は「善男子・善女人」として悪いことをせず、人間以外の生物のように全てを宇宙に委ね、現状のありのままを受け容れて自分の生死に逆らわず生きるならば、誰でも今の人生も後の人生も苦悩の無い人生になるだろう。勿論、人間であるから生老病死の苦を背負っている。その「苦」をありのまま受け容れて運命に対しては従容とした態度をとる。そういうことは人間だけができることである。勿論そのように従容とはしておれないのが多くの人間の有り様である。そういう態度は修養によってのみ身に付くものである。

他の生物に捕食される生物は捕食される前は逃げ回る。生物は他の生物に捕食されても自分の種を残すように、またなるべく他の生物に捕食されないように進化している。これが生物を多様にしている。生物は他の生物に捕食されたとき痛みを感じるだろうが、そのまま食べられている。人間だけはそのことを悲惨に感じ、残酷に感じる。人間は自分が殺されることを恐れるが、殺された後自分の魂は残ると考える。他の生物にはそのような考えはない。

自分の死はそれで全て終わりではなく、いわゆる「あの世」に生きることになる。それが宇宙の定めである。そのように信じることができれば「この世」での迷いは無くなる。宇宙を阿弥陀仏(Amitāyus Buddha)であると考えるならば、宇宙はそのようにして人間と言う生物に救いの手を差し延べてくれていることになる。まだ哲学として確立していないが、私はそのような方向で思索中である。生物学・量子科学・宇宙科学などの知見やAI技術などは将来人間を宇宙に帰一させる哲学を生むかもしれない。


われわれは何処から来て何処に行くのか(1)


138億年前に我々の宇宙が誕生した時はプラズマ状態であった。我々の宇宙の99%はプラズマであると言われる。太陽はそれ自体プラズマであり、太陽フレアによる太陽風もプラズマである。プラズマとは原子や分子から電子が離れ、イオンと電子が混在した状態である。

プラズマという言葉の語源はラテン語のplasmaにあり、その意味は「形造られたもの」である。近代科学においてこの言葉が用いられ始めたのは19世紀の後半である。それは医学における血漿(blood plasma)、または生物学におけるまたは原形質(protoplasma)である。

我々が実際に見るプラズマ現象はオーロラや雷や蛍光灯などである。オーロラは太陽風と地球磁場の相互作用によって起きる放電現象である。稲妻は地上と上空の間の温度差が一定以上になると上昇または下降気流に乗って雲の中の氷の粒同士が激しく衝突し合うことにより静電気が生じ、地上との間の電位差が大きくなって起きるものである。

雷鳴は積乱雲と地表面の間の放電路にある大気の温度差により空気の流れが音速を超えた時に起きる衝撃音である。蛍光灯はその管の中にアルゴンや水銀蒸気が封入されていて、このガスに高電圧の電界を加えるによってガス分子が電離しイオンと電子になることにより蛍光灯管内はプラズマ状態になる。このイオンと電子が再結合して元の分子に戻るとき紫外線が出る。これが蛍光管内側に塗布された蛍光体に照射されて可視光として発光する。

太陽はその中心核で水素の核融合反応が起きている。この中心核で強大な重力とそれによる高温度により水素原子が衝突し合って、水素原子核4つからヘリウム原子核1つが合成されている。核融合は原子核同士が融合してより重い核種になることである。因みに核分裂は原子核が中性子を吸収して複数の軽い原子核に分裂し、連鎖的に核崩壊することをいう。いずれの場合も発生量は物理的に違うが E=MC2() の強大なエネルギーを発生する。

太陽の中心部は太陽核とも中心核とも呼ぶが、その中心部で起きる核融合により非常に高いエネルギーが生み出されている。この高エネルギーは光子のガンマ線やX線である。この光子が太陽の表面に届くまでには17万年かかると推定されている。対流層から光球の表面に至った後、光子は可視光として飛び出す。太陽光は我々にとって恵みであるが、太陽フレアは我々に様々な被害を与える。このフレアの観測・予報は宇宙天気として報じられる。

太陽の核融合が進むと徐々にヘリウムが中心核付近に溜まってゆく。約50億年後には中心核にある水素は枯渇して全部ヘリウムに変わり、太陽は赤色矮星になる。その前にこの地球上の生命は途絶えてしまうことになる。太陽の活動は我々の生存に大きく関わっている。

あらゆる生物はそれぞれ自己保存のため最適な方法を獲得するように進化してきて、今も進化を続けている。ヒト種の生物である人類はアフリカの地溝地帯でチンパンジーから分岐して誕生し、ユーラシア大陸に移動して火を使うようになった。それ以来人類は何時でも何処でも利用できるエネルギーを手に入れる技術を開発し発展させてきた。現在我々はこの地球上で核融合により安定的かつ効率的なエネルギーを得る方法を実用化しつつある。

ヒト種の生物である人類がほかの生物と異なるところは、人類が二足歩行し言語を用い想像力を持っていることである。このため人間は自分の意識を、時間と空間を超えて自由自在に融通無碍に広大無辺に延伸させることができる。

生物には「自己の種を残す」ため有している根本的な自己保存機能があるが、人間は自分の意識を時間・空間を超えて延伸させることによっても自己を保存することができる。例えば切腹した志士の名誉は後世に語り継がれる。人間のそのような自己保存機能が発現されている状態として、私は「真理」の探求・「善」への精進・「美」への感動の三つがあると考える。これは「ヒト」種の生物の人類である人間独自のものである。

「真理」の探求の結果として誕生したもの一つが「人工太陽」とも言われる核融合装置である。核融合装置においてはプラズマ状態にある炉内で重水素(deuterium)と三重水素(tritium)を衝突させてヘリウムと中性子を得る。この中性子は炉内でプラズマを包むように作られるブランケットに含まれるリチウムに衝突して核反応を起こして熱を発生させるとともに三重水素を生成する。この熱を発電に利用するとともに、生成された三重水素を再利用する。重水素は水に含まれている。三重水素は酸素と結びついたトリチウム水として水に混在している他、大気中にはトリチウム水蒸気・トリチウム水素・炭化トリチウムの形で、それぞれ水蒸気、水素、炭化水素として混在している。つまり核融合を起こさせるため必要な物資は我々の身近なところに存在している。

核融合発電装置では炉内にプラズマ状態を作るため非常に多くのエネルギー(加熱入力)を必要とする。核融合出力が加熱入力に比べ十分大きくないと採算がとれない。しかし日本の実験炉(JT-60 )は世界に誇る装置であり、これを運用して日本も参加している国際的な核融合エネルギーの実現性を研究するための実験施設(ITER)の活動に必要な技術的資料・管理的資料などを収集し、提供している。因みに日本はプラズマを発生させるための超電導コイルの分野で先進的な役割を担っている。

地上に届く太陽光には可視光線・赤外線と紫外線が含まれている。紫外線は生命の維持に有害であるが、上空のオゾン層によって遮られているため生命活動が維持できている。原始地球上で無生物的有機化合物が化学進化的に合成され、原始海洋にアミノ酸や核酸塩基などが自然に生成された。その後酸素を発生させるバクテリアや化学合成細菌が現れた。

その酸素が太陽から降り注いだ紫外線または高いエネルギーを持つ電子と酸素分子の衝突によりオゾンになる。質量の大きいオゾンは紫外線を直接受けやすい上空の対流圏外で地球を包むように存在して原始地球上に誕生した生命の維持に役立った。そして地球上に現在のような生物が存在するようになった。真核生物である我々人類(生物学上‘ヒト’)の細胞もパン酵母の細胞も全く同じ構造をしていて、細胞内に核を持ち、その核の中にDNAが収められている。人間は他の生物と違う、と思っているが他の生物と変わらぬ部分が多い。

人間は自然界から年間2400μSv(= 2.4 mSv)前後の放射線の被曝を受けていると言われている。国際線の乗組員や航空機で頻繁に海外出張している人たちは更に多くの放射線を受け被ばくしている。放射線は我々の体の細胞内でDNAを構成する分子の一部をイオン化してDNAに損傷を与える。一方、紫外線はDNAを構成する分子内の原子を励起することによってDNAに損傷を与える。この損傷によってDNAの複製時にエラーが発生する。

放射線や紫外線によりDNAが損傷を受けたとき、それを修復するプログラムはDNAに予め書き込まれている。エラーが生じているDNAによって新たな細胞が作られた場合、その細胞は自動的に破壊される。そのほか生物には生命を維持するため免疫力を供えているなど様々な機能が備わっている。これはこの地上のすべての生物に、それぞれ進化の過程で自ずと備わってきた自己保存機能である。

人間はフロンなど塩素を含む化学物質が大気中に放出し、オゾン層を破壊している。人間は燃焼、窒素肥料の使用、化学工業(硝酸などの製造)などにより大気中に亜酸化窒素を放出しているが、これも紫外線で分解されて一酸化窒素が生成され、その一酸化窒素がオゾン層を破壊している。国際的な協調でオゾン層を破壊する物質の排出を抑えようとしているが人間の自己保存活動が人間自身の自己保存を危うくしている。

我々はこの宇宙の中の数々の星々の中の一つであるこの地球上にあって、「我々は何処から来たのか。そして何処へ行くのか」と問い続けている。「プラズマ物理科学」はその問いの一つとして「真理」を探究する科学である。その科学の系譜は紀元前6世紀のタレス、前4世紀のアリストテレス、16世紀のコペルニクス、17世紀のガレリオ、1718世紀のニュートン、19世紀のマックスエル、1920世紀のアインシュタインと受け継がれ、そして20世紀から今世紀に日本の小柴昌俊によるニュートリノの観測成功やニュートリノに質量があることの確認、そしてアメリカのLIGOによる重力波の観測成功などにつながる。

人の一生は限られているが科学の知見は受け継がれ発展してゆく。人間は現在この地球上で太陽と同じような核融合で電力を得ようとしている。宇宙で太陽光発電を行いマイクロ波でその電力を地上に送るための実験を試みようとしている。探査衛星を飛行させる推進力としてプラズマを利用している。核分裂によるエネルギーで電力を得るよりもこれらの方法は安全である。何故ならこの地球内部ではマントルが動き何千年・何万年に一度の頻度で起きる超巨大地震・巨大カルデラ噴火・巨大隕石の落下・テロリストによる原子力発電施設の破壊などにより想像以上の放射能汚染が起きる可能性を否定できないからである。

科学はこの宇宙の中にあって我々がどういう存在なのかを次第に明らかにさせる。NASAの惑星探査機「ボイジャー」が土星の近くで観測した地球は青い色をした「生命の星」である。しかしその星の上では人間同士が争いあっている。ごくごく一部の人がその虚しさを知っているが、殆どの人々は自分たち人類がいずれ何十億もしないうちに滅びる運命にあるということを知らずにいる。そのごくごく一部の人たちは、いずれ人類が滅びる前に、人類の種を地球外で存続させるための研究や実験を行っている。これも「ヒト」種の生物である人類の自己保存行動である。人間は「ヒト」種の生物の人類である故に、生存のため悩む。

ところで科学の対岸にある宗教は、科学的に証明されていないことでも信じることを要求する。2600年前の仏陀の教えに忠実に従いながら、煩悩の人に心安らかに生きる方法を教えたのは親鸞である。真宗は妻帯肉食をし、人は煩悩の身であっても心から阿弥陀仏(Amitāyus Buddhaの音訳)を信仰し、善良に生きるならば、その人の現世が即ち浄土であり、来世でもその人は浄土に生まれる、と説いた。

このような教えは世界中どの宗教にも無い。「浄土」とは「五濁・悪道のない国・仏や菩薩が住む(光明と妙なる楽音と美の極致に満ちた極楽の)国」のことである。「真」なるものに触れ、「善」なる心を呼び起こし、「美」なるものに感動しつつ、阿弥陀仏に帰依している愛他・善行の人は、自らの「自己」を「保存」することができている人、と言えるだろう。


「真」「善」「美」については人それぞれに生き方や思想信条の違いなどによる違いがある。人それぞれに自己保存の在り方にも違いがある。しかし自分が「何処から来て何処へ行くのか」「自分は何者なのか」を知る知恵について悟ることができる人は自分自身である。人類が未来においてどういう運命になるのか誰も予測できない。故に極端なことを言えば宇宙は即ち阿弥陀仏であると考え、安心立命の生き方をする方が幸せではなかろうか。